2025年6月11日・茶屋坂のトンネルが好きだった

 
 指紋認証が思うようにならない。バフ掛けは、心と力を込めるほど、グラスと指先を等しく美しく磨き整えてしまうものらしい。

 標高1500mにあるこの町にも、墨田区同様に梅雨はやってくる。黒々と朝霧に濡れる樹々は、草千里浜の馬たちが、BWV629とタルコフスキーの色合いでこっちを観てるような、どこか深く潔い諦めに似てる。
 その立ち姿は、波平さんの大切な盆栽を壊し、言い訳をヨハネの福音書に求め、「人間の罪ではなく、神の業の顕れである」と、一方的に突き放されたカツオくんそのもの。
 
 或る人が、「雨の日は外出しない。傘がないから。」などと言っていた。それは諦めに見えて、戦略的な行動に思える。おそらくその人に傘を100本贈ったところで、雨の日に外出することはないのだろう。頑な行動の根底にあるのは、雨の日は外出しなくても困らないという自信か。そこに理由がないのであれば、ある種の強迫行為なんだろう。
 昨年の梅雨の晴れ間、あまりにも退屈すぎて、なんとなく参加したY銀行の6月の株主臨時総会。たまたま、その或る人を見つけ、これはチャンスだと世間話で前述の件を確認すると
 「いや肉球が濡れるのと、傘で前脚が一つ塞がると、注意力が散漫になって、落とし物をするから」と、合理的でありながら、どこか病的な応え(答え)に拍子抜け。それは茫然でなく呆然。

 「米がなければライスを食べれば良い」
K大臣の発言は、所謂、K論法のはぐらかしようで、”海外の米を輸入することで対処療法を行う”と宣言している。
では、雨が嫌ならどうすれば良いのか?
 「雨が嫌ならレインを降らせれば良い」となりそうだが、"レイン"とはいったい何なのか。どうやら、K大臣同様に、朧ろ気ながらある数字が浮かんでくるわけで、それは"3"だ。背中に羽ではなく"3"という数字を据えれば、多くの課題は解決する。

 それは簡単そうで、「台風をヨウ化銀散布で消せたとして、散布したヨウ化銀はどうなるのか?そもそも雨に効果はあるのか?」と考えてしまう僕に、情熱という背番号は育たない。つまり永遠に不滅の補欠。やらなくて済むならやらないがほうが良い。裏を返せば、やるとなれば燃え尽きるまでやってしまうから、やらないことが最大の自己防衛になのだ。

 蕭蕭と雨に打たれる馬のような崇高な精神が、馬に精神を見出して、デカルトに稚拙な反抗程度の気力いはある。(精神を決めるのは馬である必要はないし、馬を見て、馬だと決めつけてるのは、馬を見てるこちらなのだから。)

 結局、僕は駱駝なのだ。いつでもコブにはたっぷり水がある。どんな砂漠でも大丈夫。
いつでも針の穴を見てれば済むのだ。

⇒最終回「あめゆじゅとてちてけんじゃ」に続く